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2020年10月26日月曜日

温かい手

 今、娘は4歳。

出歩く時は私の手を握り締めて歩く。

私はその手を握り返して歩く。


この手を離れて歩くようになることを、今朝ふと考えた。


やっぱり寂しい気持ちになるんだろうか。

ようやく自分のペースで歩けることを嬉しく思うんだろうか。


きっと、どっちもだ。


私は一人になったとき、どう生きているんだろう。


この子の温かさに依存していないだろうか。

そんなことを思う10月の終わり。


この子が一人で歩けるように

一人立ちするまで共に歩み共に世界を見ていくのが私の役割。

そして、私自身が一人で歩めるように自分を育てていくのも私の役割。


依存や執着のない愛のある存在でありたいと

心から思う。







2020年10月21日水曜日

「自分らしさ」と「自分らしく」

 「自分らしさ」「私らしさ

これ単体でみると全く違和感を感じないんですけど、「私らしく働く」とかみるとドヨーンと淀むというか、言葉の使い方が好きじゃないんだなぁ。

これ読んでいる人は好きですか?この表現。

私にとっては違和感を覚える言葉の繋がりであったりする。


「らしさ」の使い方は好きで

「らしく」の使い方は苦手。

ここは私の分析ポイントでありましょう。

(あ、私のスイッチが。ここはあんまり掘り下げずにいかねば話しが終わらない。)


しっかり文法とかひも解いていくと「あ!そういうことか!」ってなるはずなんだけれども、ここは私の主観で書く。


「自分らしく」「私らしく」となると、自分に対する嘘が混じる気がするんだなぁ。というのが考えてみて改めて感じたこと。

自分は自分であって、存在していることそのものが事実なんだけど「らしく」がつくと”違う自分”となる感覚を抱くということなんだな。

「らしく」がつくことによって「自分ではない自分」が存在してくる感覚。

「見せたい自分」が混ざるという感覚が近いのかな。

「見せたい自分(これは他人の目を意識するってことだ)」と「そのものの自分(全部だ全部。家でボリボリお腹搔いてる姿も含めて。)」が一致しているならいいけど、そうじゃない場合、その姿が乖離するほど辛いものではないのか・・・。

ということが一気に頭にモヤモヤっと駆け巡る言葉遣いなのである。(私にとってだ)

「私らしく働く」とか見たり聞いたりすると「頑張っている素敵な私で働く」って自動変換されるわけですな。キラキラやな。


では「自分らしさ」「私らしさ」はどうかというと、自分を捉える概念をひも解く材料となるもの、といった感覚。

うーん。

「らしさ」というのは、「自分がどういう人であるか?」を認識、理解するための材料(考え方、行動、感じ方を表している身に着けるもの、生活様式、発言する言葉とか、この世界に現れている事柄)がらしさであって、「その人そのもの」を表現しているように感じている。「要素」ってことなんだな。そこには自分以外の他人が得る印象も含まれている。

事実の積み重ねが「らしさ」なんだと思う。

(ほうほう。私はそう思ってるのか。)


「私らしく働く」=「自分を失わずに働く」ってことであれば、気持ちよく受け取れるような気がする。


そういう意味で使ってる人が多いのかな。


これは、あくまでも私の言葉の世界であって、正しいとか正しくないってのは置いておいて欲しい。

この言葉がもつ意味の学問的なことは、またきちんと調べて、私の捉え方が間違っているので

あれば、考え方を適切にすればいい。


余談だが、今回は私が持っていた違和感を言葉にしてみたけれど、これが人とコミュニケーションをとる時にも頻繁に起こっていることなんだろう。

自分が捉えている意味と受けとる人が捉える意味が異なれば、なんだか微妙に話が噛み合わないってことも起こる。

どうでもいいときは「あれ?なんか違うけど、まぁいいや。」で流せばいいけど、大事なことはやっぱり言葉を尽くすってことも大事だろう。


「言葉」は意味を持つ。

当たり前だけれど、自分が言葉をどう遣うか?どう遣っているか?がわかるだけでも自分の世界がわかる。

自分の世界(概念)を理解するのに言葉はとても力を持つ。自分の世界に縛られるのはいかがなものかと思うが、知ればそこから拡げる、広がっていくこともできる。


ここまで書いたら「私らしく」も別にいいやと思った(笑)

そんなことにこだわってたんやな、とわかるとどうでもよくなるってことやね。











カフェで何を飲むか、も”らしさ”の一つだし
どんなお店に入るか、も”らしさ”の一つ。
選択した事実そのものだから。
初めて入ったこの写真のお店。
私の好きな肌触り、絵柄、形のカップで出てきた。
この日いただいたのは「薬膳紅茶」。
どれも私っぽい(笑)

2020年8月2日日曜日

そつがないって疲れるのよ

そつがないよね~

30代の頃、私が言われて嬉しい言葉のトップだった。

そつがない人でいる。

というのは、ものすごく疲れるのだ。
その頃の私は毎日毎日フルスロットルで仕事をし、夜と休日はスイッチが切れて廃人のようになってた。
だから音楽聴くのも、映画を観ることも、本を読むこともできなくなってた。
(大好きな世界なのに!)
家族や友人から電話が来るのも対応するのが苦痛、難しいという暗黒時代だ。


そつがない。
完璧であろうとする自分。

何に対して完璧であるか?
それは他人から見える自分の姿。

「他人からみて正解の行動ができているか」なんだよね。

他人の正
だから
自分ではないわけで。
そりゃ、疲れるさ。

でも、そんなことは気づけないんだよね。
自分を生きていないってことに気づけない。
いつもその視点(他者からみた自分)でいるから、それが自分の考えである。と勘違いして生きてる。
しかもその「他者からみた自分」ってのも自分の妄想だ。

他者の視点なんて、自分の想像でしかない。

だから会話とかコミュニケーションが大事で。相手がどう思うか?なんて当事者である相手に確認しないとわかんないじゃんね。


そんな頃があったなぁ。とふと思い出して。

できない自分を見せたって世界は終わらないし、それをみてサポートしてくれる人だっている。

のんちゃんのそのポンコツなところが愛されポイントやん、って言われると「エヘヘ(照れ
)」と頭を掻きながら嬉しくなったりする。


自分が出来ていることは、自分では見えにくい。
だからね、そのまま自分がやれることを自然に無理なくやっていくのがいいんじゃないかな。

そう思う。




2020年7月18日土曜日

自分の生き方が変わる時 その2(まだ序章)

自分の転機になった話し。の第2回目。
いつになったら終わるかわからんな。
と書き出してから思った。

まぁ、いいや(笑)

今日は、前回書いた「自分が変わる時 その1(序章)」の最後
「ジェロントロジー(創齢学)」という学問で出会うところを話そう。

もう資格も更新していないけど
「サービス介助士」という資格を取得するために講座をうけにいった。
(※この資格は”公益財団法人日本ケアフィット共育機構”が認証している資格制度)
2007年だから34歳の頃だ。

きっかけは、今は亡き祖母が高齢になっていたこと(当時85歳ぐらいか)と
街中でちょっとしたサポートができたらいいな、という軽い気持ちだった。

車いすとか目の不自由な人に街中で出会って、
何か手を貸すことができるかな?
って思っても「どうしたらいいかわからない」からスッと声をかけられないじゃないですか。
わかってればスマートに動けるなぁ、なんて思っていたから。

その講座は2日間コースだったかと記憶している。
座学と実技と。
とにかく、ものすごく勉強になった。
自分の知らないことを体感して、ちょっとした驚きだった。

福祉とか看護の勉強している人からしたら恐ろしくライトな内容だと思うんだけど、ほんとに自分の知らない世界の話しだったんですよ。

いや、誰しも老いていくということは知っているけど、体感がないから「理解できない」じゃないですか。
自分も「わかっているつもり」でまったくもってわかっていない、ということをわかった。といった感覚かな。(ややこしい)

今は腰痛やら目が見えにくいやら現実に起こっているから、当時より「身体がわかっている」けど、当時はまだまだ若かった。

学問的なアプローチと体感的なアプローチで学べたのがよかったんだ。

ジェロントロジーの話しに中々いきつけんが、ここは話しておきたい。
今でも熱く語れるってことは、当時相当興奮したんだろう。

具体的な介助技術を学ぶ際に「高齢者疑似体験」というのがあった。
自分の身体に次の器具を装着して金沢の街中を歩くというもの。
介助する前に介助される側を体感する、立場に立つのが目的だね。

・耳栓 ・白内障ゴーグル ・利き手の手首におもり
・両肘に関節サポーター ・両足首におもり(重さが片足ずつ違う)
・手袋(指を2本テープで固定) ・膝関節サポーター
・杖

とにかく、一つ一つの動作が大変で。
よくお年寄りが切符売り場や自販機で小銭を出せなくてモタモタしている風景みますでしょ?急いでる時に出会っちゃうと、わかっていてもイライラしたり。

上記の手袋と指固定は「触覚の低下と指先が不器用になる状態」を作りだしてるんだけど、お財布から小銭が取り出せないんですよ。
白内障ゴーグルをかけてて「視覚」「視野」も違うから、とにかく自販機でモノが買えないというのを自分が経験するんですよ。
ランプが点いているかいないかも判別しずらい。ランプの色にもよるんだけど。
ランプが見やすい自販機とみにくい自販機があった。
(※今はユニバーサルデザインが普及して、その辺りもだいぶ解消されてきてる気がする)

あぁ、こういう加齢による身体の変化が理解できないと、お年寄りに対してイライラしたり怒ったりするんだなぁと頭が理解した。

祖母に対してもそうである。
「これ開けて」とフィルムで個装された製品を渡されたりすると「自分でしたらいいやん!」とかプリプリしながら対処していたっていうこともあったなぁ。
フィルム個装のものって開けにくくなるんだ。
(すでに私は手のコンディションによるけど開けにくい時がある)

わかるから待てる。対応できる。
わからないと優しくなれないんだ。と。

こういうことが理解できたっていうのは大きな体験だった。
子どもと違って加齢によって「できないことが増えてくる」のは事実。
その反面、経験していることが多いから頭と身体のバランスが悪くなってくるんだろう。
頭で考えていることが、身体に移行しないという感じだろうか。

これだって疑似体験だから、本当にわかったことにはならない。
けれど、想像がつくようになる。
想像力っていうのは、ある程度自分の体験や知識がないと膨らまないんだ。

いや、話しが長いな(笑)

これ、今から13年前のことだ。
今、やっと体験を消化している気がする。
きっと今だからわかることもあって、当時は「面白かった」「勉強になった」で片づけられていた私を言語化できるようになってるってことだ。

そうそう、話しを戻すと、この「疑似体験」と「ジェロントロジー」が組み合わさって、その後の私に影響しているっていうことなんだけどね。

これ、この時にはそんなこと露ほども思っていないし
最近まで気がついていないんだよね。

そんなもんだ。今の行動が先々にどんな結果を生んでいくか?なんてわかんないんだ。
将来を見据えて今行動する。っていったって、その将来の姿を正確に見積もれるなんてことはないんだ。

だからね、「あ、これやってみたいな」とか「興味あるな」ってことで心の中に火種のように残るものについては年齢に関係なく行動してみて欲しい。
(あれもこれもあり過ぎて手が付けられない人は、別の注意が必要だ。)

やってみて「必要なかったな」って思うことがあったとしても、自分の感度・精度を上げていくための経験にはなっている。
自分の選択基準を洗練していく、といった種ができていくのね。
(ここらの話しは、また別の機会だな。「自分を哲学する」に通じるところ。)

また、脱線した。

ジェロントロジーの話しにたどり着かない。

が、今日はここまで。
長いな。


2020年7月13日月曜日

自分に確信をもてるか?

「確信」

強く自分を信じる、ということ。

自分を信じることができるか?

行動の結果についての”確信”は難しい
と、思う。
未来のことはわからない。

未来のことを知ることができたら
この行動がどんな結果になるのか
が、わかる。

事前に結果がわかっていれば「確信をもつ」ことができるわけで
ヒョイヒョイといとも簡単に行動が出来るようになるんだろう。

でも、未来のことは誰にもわからない。
みんな、ドキドキしたり不安な気持ちを抱えたまま
行動をおこしてるんだと思う。

なぜ行動するか?
自分の望む結果を得るために、だ。

そして、行動をおこす人は信じていると思う。
自分を。
(本人に自覚があるかどうかは関係なく)

「こういう結果を出したい!」と思いつつも
ドキドキや不安のために
足が一歩も前にでない人もいる。
モヤモヤした気分のまま先延ばししたり、ね。

そりゃ、どうなるかわからんことは恐い。
当たり前だ。
(恐いから動けないということを自覚できないこともある)

自分を信じることだ。
自分の選択を信じることだ。

どうしたら自分を信じることができるか?

自分自身を深く知ることだ。

知っているつもりでも、知らない自分のこと。
自分を知るという作業は思いのほか難しいし、深い。

私も10数年、自分を知るということについて
色々学び、吸収し、実行してきた。
それでも、まだまだ知らない自分が顔を出す。

新たな自分を知るたびに行動が変化してくる。
そこは、間違いない。

自分を知るということは
自分の望みを知っていくということでもある。

自分の望みを知った上で
「行動する」か「行動しない」かは
自分自身の選択だ。
自分自身の選択には責任を持つことができる。

結果を確信して行動することは難しいかもしれない。
けれど、自分の望む結果を得るために
何かを成し遂げるために行動する。

自分を信じて、行動する。
望む結果をしっかり見据えて行動する。

自分の望む結果がでなかったとしても
自分の選択による行動をしっかり振り返ることができる。
なぜならば、自分がその考えにいたった基を理解しているから。

行動の先にしか
結果はでない。

自分のことを信じることをできるか?
そこが行動の違い、結果の違いを生む。

別に大きな選択じゃなくてもいい。
小さな小さなことでもいい。
(自分で小さなことって思っていても大きな結果を生むこともあるよ)

私の場合はどうか?
を、次は具体的に書くことにしよう。

今日はここまで!



2020年7月9日木曜日

選択と満足

自分の選択できているか?

案外と他者の視点でものを決めている人、多いよ。

自分のものだと思っている「好き」や「嫌い」も親や世間や時代が「良い」「悪い」「好き」「嫌い」と設定したものに影響されている。

満足して生活することに必要なことってなんだろう。
私にとってはこの2点の要素が大きい。

・選択するために自分を知っておくこと
・選択できる水準に自分をおくこと


生活のこと
学校を選ぶこと
パートナーを選ぶこと
働き方を選ぶこと

朝早く起きるかギリギリまで寝るか
掃除をするかしないか
ご飯は何を食べるか

etc.etc.

大きなことから小さなことまである。
選択、決断の繰り返しが日常だ。

自分が満足するための基準を知っておくと
無意識から意識的に選択ができるようになる。

それから経済力と知識・教養など学力。
自分がやりたい!と思ったときに行動がとれやすい水準に自分をおいておく。
ということだ。
※学力は学校の偏差値とかネームバリューじゃなくて、俯瞰してものをみることや論理を組み立てる、物事を読み解くとかいうこと。
やりたいことを実現するために必要な力。

毎日が選ぶことの繰り返し。
自分が「なにを基準に選んでいるのか」
を知るだけでも
これから先の選択が変わってくる。


選ぶも選ばないも自由。
選んだ時に起こること
選ばなかった時に起こること。

自分が結果を受けとめる力がつくということじゃないかな。
生きてることに満足できるかどうか。
選ぶ自分が握っている。














6月21日  日食新月の日の写真。
淡路島西浦の海で。

2020年7月4日土曜日

選択できる、ということが大事

大阪市、給付金来ないね。
5月の収入が落ちたから
6月には手元に欲しかった。
(割と切実に)

あてにしていたのだが。
ないものはしょうがない。
必要最小限の生活をする、
という選択になるね。

お金がない
というのは、切実ではあるけれど
必要最低限生活するためのお金はなんとかある。
そんな状況。

必要最低限、ということは
選べない、選択の幅がないということだ。

ちょっと話しは飛ぶけれど
4年前、妊娠が発覚した時が
一番お金のない時だった。
自分の事業より大切なものと出会ってしまった
と思っていた結果だった。

その頃、事業がおざなりになって
貯蓄を潰していくようなことになっていた。
(クライアントとは真剣に向き合ってたよ!
 ただ広報とか事業につながる導線をひく活動をしなくなってた。
 先細りしてく状況ね。)

大切なもの。
それは残念ながら自分がそう思っていただけだった。
妊娠と同時に別れて
一人で産むことになった。

その辺りの諸々は省略するけれど
(いつか違う形で書くと思う)
なにを書きたいかというと
とにかくお金がなかった。
ということを書きたいのだ。
そんな生活を経験したということね。
恐かったよ、正直。

出産までの間、企業へのお勤めに出て
生活できるレベルにはなっていたものの貯蓄は一切なく、
出産後働けない期間の生活をどうしたらよいか?
それはそれは、それはそれは切実な状況だった。

生まれてくる子どものための
産着からロンパース、靴下、おくるみ
ありとあらゆるものは出産前に
事業仲間の友人が調達してくれた。
新しく自分で買ったものは新生児用のおむつと哺乳瓶のみといった感じ。

「出産一時金」で出産費用(入院費・出産費等)が賄えるように
入院先も最初にかかった産婦人科医院で公立病院を紹介してもらった。
が、陣痛前に破水したため出産日より前の入院となった。
入院期間が延びた分の金額が会計時にわかって青くなるという。
出産祝いを持って駆けつけてくれたお世話になっている心理学の先生や
友人たちの出産祝いの封を病院の会計窓口で切るという
誠に情けない状況にため息しか出なかった。

一人暮らしをしていた部屋で
小さな小さな可愛い女の子と過ごし始めた。
両親もおらず、弟が継いでいる実家も遠く頼るのは、友人たち。
起業家の仲間たちが出産祝いとして集めてくれたお金で
産褥期の1ヶ月の間の食事を手配してくれていた。
身体に美味しいごはんがクール宅急便で届くという
ほんとにほんとにありがたいサポートをしてもらった。
(その時、美味しい食事を作ってくれていたのは
中山日さえさん(台所アルのご店主)
不安の中でも美味しいご飯を食べてた。)
食べるものがある、というのはものすごい安心感なのだ。



今も感謝しかない。
ほんとにありがたかった。
この仲間たちのサポートがなかったらと考えると
ほんとにゾッとする。

とにかく選択の幅、なんてものはなかった。
選択はしているけど
「買えるか?買えないか?これを買ったら明日から生活できるか?」の選択だ。

出産手当金と友人・知人からの出産祝いで
なんとか8か月間を乗り切って仕事に復帰した。
9月に出産して4月に職場復帰。

個人の事業をする気力も時間もなかった。
出勤してきちんと仕事をすればお給料が出る
というお勤め仕事が精神的にも肉体的にも楽だった。
時短勤務だから貰える金額も多くはない。
それでもなんとか生活はしている。

それから間もなく4年が経つ。
個人の事業も昨年末から再開した。
少しずつだけれど自分の望みに向かって
行動がとれるようになってきている。
これからどうするのか?だ。

お金がない、というのは切実だ。
家賃が払えない、明日のお米がない
電気が止まる、ガスが止まる
ありとあらゆる支払いができない。
お金がないのは恐怖でしかない。

必要最低限の生活ができるお金があれば
なんとかなる。生きていける。
が、好きなものは選べない。のだ。

ものを選べるというのは
めちゃくちゃ幸せなことである。

とはいえ、「あれがほしい!これがほしい!」と
欲があるか?と聞かれれば
「そんなことないなぁ」と思うのだ。
なんか矛盾しているけど。

まぁ、我慢してないか?といえばうそになる。
いい靴が欲しい。
とか、収納棚が欲しい。とか
そうのは、ある。
でも生活に満足していないか?と聞かれれば
「満足はしている」と答えるなぁ。

お金があれば、あれこれ選択肢が増える。
自分の選びたいものが選べる、というのは幸せだけど
贅沢したい、というのとはまた違うんだな。
と貧乏生活をしながらも思う。
たぶん、自分に必要なものを自分が認識しているからだ。

お金がないなりに
自分の選んだ生活をしている
そういうことなんだと思う。

とにかく「選択できる状況に自分をおく」
をいうのが大事なんだな。

選択の幅をもつために何をするか?
勉強することもそうだし
仕事をすることもそうだし
選べる状況を作ることが大事だと思う。

上をみてもきりがなし
下をみてもきりがなし。

自分が求めるものがなんなのか?
自分の望みはなんなのか?
知っている上で、それを選択することができるように
行動していく。

そういうことなんだと思う。


2020年5月26日火曜日

煮凝りみたいな感じでいこうと思う

コロナウイルス。
ものすごいインパクトを伴いながら日常に溶け込もうとしている。

症状がない場合は自分自身は問題ないが
自分からどこか別の人に飛んで行ったときに
飛んで行った先の人がどうなるか?が読めないだけに
とても怖いと思う。

どういう風に共存していくことになるのか。
自分にできること
手洗い、うがい、消毒、マスク
をしっかりやりつつ日常を送る。
個人でできることってこれくらいだもんね。

今、ちょうどお昼に書いてる。
今朝はZOOMで雑談(ZATSUDAN)というコンテンツに参加。
主催者の人(岡田鉄平さん。珍しく私がずっとリサーチしてる人。岡田さんのメルマガなどの書き物は前段に、私にとっては理解しがたい言語が枕詞のようにくる。思わずスルーしたくなるんだけど、伝えている内容にとても共感している。)ともう一人の参加者、そして私。
30分程とりとめもなく話す。

そんな流れから今日感じてる自分のことを書いておこうかな、と。

今、湧いている言葉は
「煮凝り(にこごり)」

魚や肉を炊いたあとの煮汁を固めて作るアレだ。
鶏肉とかカレイとか甘辛く炊いたあと固まってる煮汁ね。
(綺麗にお料理として作るものもあり)

こんな感じでいいんじゃないって
なんかふと思ったんだよね。

煮凝り、私も食べるときと食べない時がある。
好きな人は好きだよね。
私は煮汁で勝手にできるものは
あつあつのご飯に乗せないと食べられないかなぁ。
穴子とか綺麗に寄せて作ったものは
そのまま食べるけど。

個人の好きずきってことだ。
もう色んなところで色んな人が言ってることなんだけどさ、
「そんなの好きずきだよ」って言ってても
腑にはなかなか落ちていないと思うんだよね。

口で言ってても「なんでも食べてみなよ!」って
人に言ってたりするしね。
(美味しいものは人と共有したいという場合もあるけど)

なんの話しかわからんくなっとるな。

人が書いたものって、
その人から出てくる「濃縮したもの」だ。
煮詰めて出てきたエキスが固まったもの。
いや、サラッと出してる人は当てはまらんかもしれんな。
私の場合はゴリゴリに煮出すイメージになる。
(煮詰め過ぎて表に出せず、ごみ箱行きになるものが多すぎる)
ちょっと気持ち悪い。

美味しいと思うかどうかは食べた人次第だ。

今日は改めてそんなことを思った日。

煮凝りみたいにコトコト煮込んだ本体は
主菜として世に美味しく提供できたらよい。
んで、詰まった煮汁は副産物だけども
本体から出てきたエキスが濃縮されているものだ。
それも美味しくお料理としていただけたらいいね。
そんな感じ。
美味しく出せるぐらいで表に出さんとね。

煮凝り。
食べるか食べないか
美味しいか美味しくないか
は、出されたものの前に座る人のものだ。

これ、なんだろな。
なんの話しかわからんかもしれんけど
ま、私の頭の中はいつもこんな感じで
物事が流れとる。

それもまたよし。


※これは石川の郷土料理で「えびす」。
お出汁を寒天で固めたもの。
 お祝い事で食べる。
 煮凝りなんて写真撮ることないから代わりに。
 これはお節料理で作った時の。








2020年2月20日木曜日

人生100年といわれるとね

人生100年。

聞くたびに「あぁ、恐ろしい・・・」と反射的に思ってしまう。

・歯の調子が悪い(60歳までもつのか?私の歯)
・腰痛がひどい(しばらく同じ姿勢でいると動きだすのに時間がかかる)
・老眼が進んでいる(焦点が合いずらい。夜、見えにくい)

50歳前でこんな状態だからです(爆)

健康でいられる時間がどのくらいあるのか人それぞれだけど
生きている時間は心身ともに健全に過ごしたい。

身体のことに不安要素が大きいんだよなぁ。
とにかく40代のうちにメンテナンスをしっかりしていかないと
身体から病んでいきそうなので
ここはしっかり取り組んでいきたいところ。

とりあえず、ラジオ体操を始めました。

これがなんだか気持ちいいんですよ。
しっかり全身運動。
んで、久しぶりにやると
「飛べない自分」にビックリしたりするんです。

そう、ジャンプがつらい(笑)
普段、飛ぶという動作しないもんね。

普段しない動作はできなくなるってことだ。
意識的に動かすって、歳をとればとるほど大事なんやな。

身体も頭も心も、
しっかり稼働させて
しっかり機能するように
確認が必要ってことなんやなぁ。

動かしてみないとわからん。

人生100年。
と聞いて「あー!それは楽しいなぁ!」といった感じに
なるのもあんまりピンとこないけど
「恐ろしさ」は無くてもいいな。
無い方がいいな。



2019年10月8日火曜日

自分の生き方が変わる時 その1(序章)

自分の転機となった話しを書いてみる。

転機となっていくこと。

小さなことが積み重なって
大きな転機が訪れる。

その転機に乗っかるかどうかが
人生が大きく変わるかどうかの分かれ目。

その時その時を自分が懸命にやっているかどうか、も
一つ大事なことだと思う。

自分の枠を超えて
自分が決断し
行動を起こしたこと
に対して出る結果のことを「転機」だと体験として受け止めている。



大きな転機のはじまり


2010年10月9日が大きな一歩を踏み出すきっかけになる日。
この日が大きな転機の始まりだと今だからわかる。
この時は、そんなことも露知らず。
この大きな転機のことは、また後段で。
その前段階をまず書いていこう。




自己啓発という言葉が大嫌いだった


30代前半、経営コンサルティングの会社に勤務していた私は会社の仕組みを作る専門部門に所属していた。
入社の時に「人材育成」の仕事がしたいって話しをしたが、その当時は講師を外注していたため採用していなかった。
もともとシステム開発の仕事をしていたこともあり、会社の仕組みづくりを担当していくことになる。

コンサルタントとして活動していくのだが、会社が提供しているサービスは全て身についていないといけない。
活動する中で、私のふるまいや言動自体が営業活動になっていくからだ。
実際に電話問合せだけで受注が決まることもある。
「御社の電話応対は素晴らしい!」といったことだ。
競合している時は、こういうことだけで事が決まっていくことも多い。

経営計画の立案やら目標管理制度やらを自分の組織の中で学んでいった。
それはそれはツライが面白かった。
自分の部門の経営計画を立案しブラッシュアップしていく作業やその立案した計画に基づいて自分の行動計画(目標管理)を行っていく作業は本当に楽しい。
上司に恵まれていたということもある。
ここは、当時の上司に本当に感謝している。

業務内容なんかを書いてたらキリがないのだが
こういう「組織を作っていく仕組み」を提供していく仕事をしていると、いきつく先は「人材育成」になっていく。
どんなに素晴らしい理想的な仕組みやマニュアルがあっても、それを動かすのは「人」だから。


そんなこんなで会社の中でも人を育てる教育が行われるわけです。
・マナー研修(挨拶、電話応対、来客応対など)
・アサーティブコミュニケーション
・自己啓発セミナー etc.etc

自己啓発って言葉にもこの頃に出会うわけです。
本来、悪い意味なんて一切ないのに、拒絶反応が起こる(笑)
たぶん、私のような人はいっぱいいると思う。


なんや自己啓発って?
「自己実現」とか「より良い自分」とか、気持ち悪い・・・・
って思ってました。

(補足:広辞苑第7版では「自己啓発」って単語はない。「啓発」の意味は『知識をひらきおこし、理解を深めること。』とある。)

意識を高めるとかなんのこっちゃねん!
意識高めたかったら自分で決めて自分でやるわ!
なんで自分の内面のことを会社にコントロールされないかんねん!

いや、今もこの言葉からは気持ち悪さがつきまとう。
たぶんビジネスで提供されている研修とかビジネス本の影響だけどネガティブなイメージしかもてない。

講師にもよるけど、社内研修では断固拒絶な姿勢でいつもいた。

あと、「大切なことは全部お経や本の中に書いてあるわ!」という意識も強かったかな。
これは私の出自も関わっている。
お寺に生まれ育ってるので「自分の倫理観が正しい!」という、恐ろしくおこがましい考え方が当時強かった。
※今は全くないです。自分が正しいなんてことは思わない、思えなくなっています。
 ちょっと成長しました(笑)

だから「人材育成系」の何かを自ら受けるとかいう選択をすることは一切なかった。
自分に必要であることは、自分が惹かれる内容の本を買って自分の中に落とし込んでいくということをやっていた。
(実践が伴わない知識は単なる知識で終わっていく。)


そんなある日「サービス介助士」という資格を個人で受講しにいくこととなる。
ここで「ジェロントロジー」という学問について知ることになる。
このことは、自分を開いていく小さくて大きな出来事になっていく。

あれ、保育園へのお迎え時間が迫ってる。
ジェロントロジーについては、また次回。




ただいま募集中

Googleで検索しても自分のことはわからない
「自分を哲学するワークショップ」

毎月1回テーマを変えての開催です(全10回予定)。お好きなテーマの時に受講してください。単発で受講も OKですし、毎回参加でもOK。ご自分のフィーリングで受講を決めてください。(連続3回受講の場合割引制度あります。)

<開催日程>
第1回:2019年10月19日(土)10:30-12:30
   (テーマ:私はだれ?)

第2回:2019年11月16日(土)10:30-12:30
   (テーマ:私の大好きなこと)

第3回:2019年12月14日(土)10:30-12:30
   (テーマ:私の理想の姿って?)

<参加料金>
価格:3,000円(税込)/1ワークショップ

詳細・お申込みはこちらでご確認ください☆ → 募集案内ページ

2019年9月20日金曜日

2019年9月20日 朝、きれいな秋の空を見上げて

今朝、子どもを保育園まで送った帰り道。
自転車に乗って秋の風を身体に感じながら頭に浮かんだことを
書き留めておこう。

自分が親になって
子どもを自転車で送り迎えしている今を
5年前の私はまったく想像していなかった。

子どもが自我というものを押し出せるようになって1年ほどか。
2歳半ぐらいから朝の送り出しが大変になった。
自分で食べる、着替える、靴を履く、ができるようになってきてから。
自分のペースじゃないと動かない。
そりゃそうだよね。
人のペースで動くのは大人でもしんどいし、命令されれば腹も立つよな。

わかる、わかるんだけど朝は急いでくれ!
保育園は9時15分までに登園だ。
お着換え終わって、朝のご挨拶に間に合わん!

って言ったって、それがどうしただよね。
それは大人の都合だ。

と、母は理解しつつも、
自分の遅刻も絡んでくるのでヒートアップしてくる。
「急げ―!!!」「早くってば!!!」「急がんかい!!!」

毎日毎日の「急げーーー!!!」が今朝はなく。
朝食もお着換えも服薬もスムーズに
そして自分で玄関に行きお靴を履いて私の出発を待っている。

なんて素敵な一日の始まりでしょう。

二人で手をつなぎマンションの階段を下りながら
「●ちゃん、自分でお靴履いて玄関で待ってたよ」とニコニコ話す娘。
「おかあさん、●ちゃんがお靴履いて待っててくれたらほんとに助かるわー!」とニコニコ話す私。
お互いウフフ アハハと笑いながら登園。

珍しく穏やかな朝だったせいか
爽やかな風の中で自転車を漕ぎながら
信じられないくらいの幸福感を味わった。

あ、私、子どもを自転車に乗せて保育園の送り迎えしてるんだ。
こんなことある?
いまだに信じられない。

パラレルワールドのように
仕事ばっかりしている満たされていそうで満たされていない私の姿も同時に目に浮かぶ。

私が決めて行動を起こした結果が一つここにある。

2014年2月に個人で仕事をするために石川県から大阪へ拠点を移した。
この時点で41歳。
現在2019年9月。子どもは3歳になった。

子どもを産むことを意図して大阪には来ていないが、自分の事業よりなによりも大きな私の望みを叶えることになった。
卵管の詰まりがあって、子どもを産むことを考えているなら治療が必要と医師からは言われていた。
それよりもなによりも子どもを持つためには、相手が必要で。
年齢的にもう子どもを持つことはあきらめていた。

すごい流れだ。

たぶん、大阪に出てきていなければ
彼に出会うこともなく
子どもを産むこともなかっただろうと思う。

自分の事業は中断したけど、何にも代えがたい3年間を過ごした。

強く強く願った、大きな大きな私の望みは実現している。

さあ、これからの私はどうする。

在り方が私の人生を動かす。
自分がどういう人でありたいか。

この3年間で見つめてきた自分で
しっかりと行動するのだ。




2016年2月7日日曜日

惹かれるものは変わっていなかったりする

子供の頃、というか高校生になっても読んでいた絵本。


「ふんわり王女」
  ジョージ・マクドナルド著
  マクドナルドの童話全集4 太平出版社(1977)























活字の多い絵本で、繰り返し繰り返し読んだ記憶があるけど

何が面白くて読んでいたんだろうと

最近、ふと気になったりしている。

挿絵もとてもクラシカルな感じで

とてもとても好きだった。


魔女の魔法で重さを奪われた姫。

身体に重さがないだけではなく

心にも重さがない。

だから思考も軽いというか

現実から離れた世界で生きてる。

苦しむ人をみても

微笑んで眺めているような

浮世離れしたお姫様のお話し(記憶が遠い・・・)。



ただ水の中にいるときだけ

重さをとりもどす(現実世界に生きる人)

という話しだったと思う。


童話の王道パターンのような感じだけど

この話しにものすごく惹かれたのは何故だったんだろう。



重さが表すこと。

「心に重さがない」っていう設定が

人の思いや行動を思い図ることができないっていうことを表していて

人が何に哀しみ、喜びということが

理解できないということだった。

その描写がとても不思議な感覚だったんだなぁ。



書きながら思い出したりしているけど

もう一度、読んでみたい。

心に重さがないって

どんな描写がされていたのか、とてもとても気になる。

もう絶版になってるらしい。

探してみよう。



子供の頃に惹かれていたもの。

今、興味を惹かれるものと変わらなかったりする。





2016年1月23日土曜日

自分のやりやすさはどこから湧くか

うーん。眠い!

って書いても、誰の役にもたたんけど。



自分の意識にのぼらないぐらいに

自動的に頭と手が動くようになるといいのよね~。

と、思いつつ

「とにかく書く」を継続中。

これは自分のエゴの世界やけど

これも何かの誰かの役に立つやもしれん。


元々、伝えるのが苦手やから

言葉で伝えることを応援する仕事をしているわけでね。


事業者さん、経営者さんの思いを

ハッキリと自分の言葉で認識するところを

お手伝いすることも

仕組みづくりも

どっちも言語化の仕事なんです。


人のことはサポートできるが

自分のことは苦手であるという哀しい現実。


こりゃ、コツコツと書いていくしかないなぁ。


眉間にしわを寄せて、うんうん唸りながらやる作業より

「なんか降りてきた!」ぐらいに軽やかに進められた作業の方が

成果がでやすいってのは

みんな経験してるんじゃないかと。


意識したことないなら、確認してみたらいいですよ。



コンサルティングを行っている時、クライアントさんとの会話の中から

一人一人ギューッと集中しつつも

難しいこと考えずに勝手に頭も身体も動いていく

っていう感覚・瞬間が見えたりするんです。



そういう時って、人それぞれのスイッチがあって

なんかのタイミングでポンって入るんだと思うんですよ。

その感覚、スイッチを入れる感覚を

自分で動かせるようになると楽なんですけどね。



その感覚が何かを自分が知らないと

意識することもできない。


自分の自動処理化。

なんも考えんでも、OUTPUTができる。

そんな状態をつくっていけたら楽だ(切実)


ブログを書くことに関しては

自分をどういう状態にしたらやりやすいのか

まだうまく捉えきれん。


早く、そんな状態をつくってしまいたい。

と思いながら、今日も書く。







2016年1月21日木曜日

自分を丁寧に扱う

ついつい自分を酷使して無理をしたり

ないがしろにしたり

反対に

甘くなりすぎたり

自分を扱うのは案外と難しい。



書き出しが重いな(笑)



いや、体調も含めて自分のことって

ほんとに適当に扱いがちだなぁって思う。


しっかり自分の状態をみる。

心も身体も。


















事業のことでモヤモヤとすることも

自分のコンディションが影響していることも多い。



感情が決断を邪魔したりするしね。



自分が今どんな気持ちなのか。

どんな体調なのか。

自分をとりまく環境の中で

何を感じ、何を思っているのか。

スルーせずにしっかりとみる。



で、どうする。

自分は何を望んでいるのか。



丁寧に自分を拾っていくことで

気づくことがたくさんある。

気づくことで、何をすればいいのか

どうしていくことがいいのか

いろんなことが決めやすくなる。


自分をわかって決断していくことで

生まれてくる結果をじっとみてみる。



自分へ問いかけをしながら

丁寧に扱えるようにしたいものです。












2016年1月20日水曜日

本業にこだわるな 本業から離れるな

クックパッド内紛のニュースをみて

頭に浮かんだのが、このタイトルの言葉。


「本業にこだわるな 本業から離れるな」



この言葉、コンサルタント会社に在籍していた際

グループ代表から聴いた言葉。

元は、誰の言葉だったのか覚えてないけど

なんだかとても印象に残っている。

もう10年も昔のことだけど。



クックパッドの創業者の本質的な想いと

現在の経営の方向性に大きなズレが出てるんだろうな。



毎日の料理を通して生み出される価値

って、幸せな生活ってイメージが涌くなぁ。



クックパッドの企業理念や現在の経営計画等

じっくり確認して

また改めて書いてみようかと思う。


今日はニュースをみて

ふと感じたことを。


創業者が「ここだけは押さえておいて欲しい」

というところが伝わらなかったのか。

それともうっちゃっておかれたのか。


創業の本質的な想いが伝わり続けて

時代に合わせた変化をしつつ

長く事業を継続していくって

やっぱりすごいことだなぁと思う。

2016年1月19日火曜日

「ソーナルじょう」が欲しい!?

トヨタ NOAHのCM

ジャン・レノのドラえもんシリーズの

「ソーナルじょう篇」


のび太の「かっこよくなりたいなぁ~」

に答えてドラえもんのポケットから出てくるのが

「ソーナルじょう」


















飲んだらかっこいいのび太くんが登場する(笑)


飲んで自分の思うようになったら、いいよねぇ。



そんなこと言ってたら

なにか起こるの待ってる人になっちゃう。

放っておくとそうなるからね~。(私)


どうしても楽な方に流れちゃうから。



漫然と待っていてもなんにも起こらない。



白馬に乗った王子様も来ないし、

(え?待ってたのか!?)


自分の実現したいことも起こらない。

(そりゃそうだ!)



自分を動かすための

「ソーナルじょう」を自分が見つければいい。



思うように動けないこともある。

日々、いろんなことが起こるから。


そんな自分もアリにして

「やる」をつくれるようになったらいい。

自分の中に「ソーナルじょう」をつくろう。



気になったニュース:勉強の意味

先週ぐらいだったか

大阪府が実施している「チャレンジテスト」について

情報番組がとりあげてた。


このチャレンジテストが何の目的でやってるかを

ざっくりかくと以下3点のような感じらしい。


・教育委員会や学校が府内生との学力を把握して教育施策に反映していく。

・生徒一人ひとりが、目標や意欲をもつために自分のレベルを知る。

・先生の主観じゃなくて公平なデータとして使う。



1年生、2年生の時から受験を意識した勉強をして

点数をとっていくってことになるんだろうなぁ。

















まぁ、制度的なことは置いておくけど

この情報番組で中学生にチャレンジテストについて

どう思うかをインタビューしてたんです。


これで人生が決まるから

しっかり勉強するように塾の先生に言われた。

だから頑張ります。」


って答えていて。

少なからず、ショックを受けたんですよね。私は。



なににショックを受けたのかって

やっぱり人生が決まるからっていう言葉。

内申点を上げることで自分の人生が決まるって

どういう意味で捉えているのだろうかと。




勉強ってすごく大事なことだと思うんですよ。

大人になって、自分で学びたいことを学ぶ

とも違って「強いて勉めていく」って感じですよね。

なかなか意図的に学ぶって感じにはなれないと思う。

私は、好きな教科しか勉強しなかったもんなぁ。

勉強する意味がわからんかったところもある(笑)


今、この年で思うのは

知らないことを知っていく。

自分の頭で物事を考えて行く。

疑問をもった時に、何をどう調べて解決していくのか。


より自分が生きやすいように

自分の扱い方や、人とのコミュニケーションの土台や前提をつくっていく。

知識を得たり、考えることを覚えていくって時期だと

そんな風に考えている。



高校受験のために内申書があって

その点数を公平につけるデータとして

このテストがあるのならば

先生の言葉は

行く高校で人生が決まるって捉えてしまうんじゃないかと

ニュースを聴きながら、そう思ったんですよね。



学校で人生が決まるんじゃない。

自分の頭と心と身体をつかって人生をつくっていくんだよって。

勉強は、自分のこれからの土台を整えるためのものだよって。



勉強の質によって、

見聞きすること、

出会う人、

出会うこと

が変わってくるのは間違いない

とは思っている。


学校の違いによって、自分がおかれる環境は大きく変化するから。


自分に合う選択をするために

選択の幅を広くするために

しっかり勉強したらいいと思う。

するもしないも本人が選択すればいいことだけど

どういう可能性があるのかは

大人が教えておく必要があると考えてる。



この塾の先生は、どういう意味で生徒たちにこの言葉をかけたんだろう。



最近、ニュースをみていて気になったできごとを

ふと書いてみた。






2016年1月17日日曜日

変化を起こす・変化をつくる

変わりたいけど、変われない。

そう思っている間は、残念ながら変わらないんですよね。


私、割と行動的に見られたりする。

まぁ、石川県からフリーで仕事をするって

ポーンっと大阪に出てきたりしちゃうからね(笑)




それは、実現したいこと

自分がやりたいこと

自分の望んでいること

がハッキリわかっているから。


そんな時の行動力はスゴイ。


反対に

「あぁ、変わりたいのに変われないなぁ。」

って、うすらボンヤリ考えている時は

変われない。


ま、当たり前なんだけど。


変われないのは、変わろうとしていないから。



変わりたくないのか。

変わる必要が無いと思っているからか。

わりと自分に都合よく考えていたりする。

「私は悪くないから変わる必要ないんだよな。」

とか、ふかーい所で思っていたりする。

口で言ってることと

胎の中が違うってことね。



自分や、自分がおかれている状況を

変えたいと思うなら

自分が行動するしかないという。


何故変わりたいのか。

自分の腑に落としておかないとね。


まぁ、行動を起こすとなると

なんだか恐くなったりするんですよね。

今までの自分とは違う動きをするから。

それこそ生命の危機ぐらいの勢いで恐かったりする(笑)


なんで変わる必要があるのか。


自分の意図や目的を確認してみる。

確認してみて、変わろうと思うなら

やっぱり行動が必要になる。


大きな一歩じゃくて

小さな一歩から。


だって、ちゃんと変化をおこしていきたいから。

小さな積み重ねが自分を創り上げていく。

そのためには続けて行かなくちゃいけないしね。



恐ろしいぐらい毎日

「変化が必要です」

という状況が現れる。


もうわかった。

腑に落ちたから、さっさと動きます(笑)











2015年11月5日木曜日

なにを成すか選択する

「差し当りたる、目の前の事のみに紛れて、
月日を送れば、事々成す事なくして、身は老いぬ。」

(訳文)
目の前のことばかりに気をとられて月日を過ごすうち
なにひとつ完成できず年をとってしまうものなのだ。

吉田兼好が鎌倉時代末期に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』
百八十八段の中の一節です。

一生の中で「ものごとを成し遂げるのに、何にどのように時間を使うのか?」
ということをつれづれとつづっている段です。

このたとえ話しがまた面白いんですよね~。
いつの時代も変わらない。



ざっくり訳すと。。。

ある父親が息子を法師(僧侶)にしようと
息子に言うんです。
「よく勉強して、仏教の因果応報の”真理”を理解して
それを基に説教などをして生計を経てていきなさい」と。

その息子は父から言われたとおり
説教のできる僧侶になるために
まず乗馬の練習をするんですね。
(なんでや!?)

その理由は、法事に招かれて迎えの馬をよこされたときに
うまく乗れなくて落馬でもしたら情けないな~っていうこと。
(かなりウケます)

そして次は歌を習うんです。
(これまたなんでや!?)

何故かというと、仏事が終わったあとにお酒の席に招かれた時に
無芸では無粋(ぶすい)だからという理由。

この法師は、乗馬も歌もわりに上手になるんですけど
結局は説教をしっかりと習う時間をとれずに歳をとってしまった。
というお話しです。

本末転倒というか
「自分がなにを成すべきか」の選択が適切ではなかったってことですよね。

本人が本当に法師になりたかったかどうかは置いておいても
そもそもは「説教で生計をたてることのできる法師になる」が目的であったところを
その他の様々な願望に呑みこまれて
本来の目的をなすことができなかったってことです。

人生の時間は有限ですもんね。

もう、読んでて「イタタタタタタタタ」ってなります。

人は人生にあれもこれもと大きな計画を立てる。
先は長いからとのんびりして
本来、自分がやりたいこと、
成し遂げたいとおもっていることを脇においてしまって
目前のことばかりに気をとられて月日を過ごすうちに
なにひとつ完成させることができずに
歳をとってしまうものなんだよ。
ということを吉田兼好は言っているんですよね。


一事を成し遂げようとすれば、
あらゆることと引き換えにする決意がなければ、
一つの大事(だいじ)を成し遂げることはできない。

ということを例え話を交えて語っています。

この原文を「あらゆることと犠牲にしてやるべきことをやれ!」
という意味で読み取ると悲壮な感じするかもしれませんね。

本質は、そういうことを言いたいんじゃないと思います。

自分の本質にある「望み」に気づく・知って
そのことを実現するために「なにをするのか」選択し、
力を集中させて動きなさい。
ってことを言いたいんじゃないかと私は捉えています。


いつの時代も人の欲望はつきません

本来の自分が望んでいる事。

しっかり自分を観察して探究していくとそんなに多くないんですよ。

根は一つのことだったりします。

自分を使って何をしていくのか?


そして事業をしている人の場合は
自分の事業が何のためにこの世の中にあるのか?

しっかりと目的にあった選択をし
行動をとっていくということが経営者の仕事。

行動を起こした先にあることは
行動を起こさないとわからない。

うまくいかないこともあるかもしれないけれど
なぜ、自分がそのことをするのか?
ということを自分がわかっていれば
そのことに向かって軌道修正することも
適切な行動を起こすこともできる。


なぜ、そのことをするのか。
行動の先にある目的を自分が知っていること
わかっていることで結果が変わってくる。

自分が励む一事のことってなんだろう。
私が、私を使って成し遂げたいことってなんだろう。

常にある問いであったりします。



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【追記】
写真の本は
集英社文庫から出ている”わたしの古典”シリーズ。
永井路子さんの現代語訳
「方丈記・徒然草」です。
この本には原文が載っていません。
古典作品をエッセイとして違和感なく読むのに良い作品です。

このブログで書いてある訳は
私の意訳になっているので正確なものではありません。
助詞の使い方一つで全然違う感じになっちゃうんです。
日本語は深い。


2015年10月23日金曜日

人生を俯瞰でみる

今年もあと2カ月と少しとなりました。 
翌年の動きを想定しながら活動する時期に入りましたね。

人生を俯瞰でみる。 

なんか大層なタイトルになってしまった。
色んな切り口があるけど
自分の時間について書いてみよう。

自分のものさしを持ってみたとき
今、あなたはどの地点に立っていますか? 

私が自分の時間を「数値」として意識したのは37歳の時でした。

自分がどのぐらい生きるのかはわからない。 
現在"何歳"かは、わかっているけど
 「私の人生」といった漠然とした言葉の中では 
全体の中で現在地点がどのぐらいのものかも漠然としていて
私が生きている時間を“量”のような数値として意識するのが難しい。 
「80歳まで生きるとしたら、今の時点で50%生きたのか~」
という把握の仕方は数字的にピンとこないんですよね、私の場合。



私は、「ほぼ日手帳」のユーザーなんですが、
そのほぼ日手帳には「日々の言葉」が1日1ページ欄に書かれています。

























6年前の手帳を購入したその日、
ほぼ日手帳をパラパラとめくっていたら
次の言葉に出会いました。 



“中学校を卒業するとき、先生が言った言葉です。

 「自分の歳を3で割ると、それが人生の時間だ」

 私達は15歳÷3 = 5時。午前5時の夜明け前。

 いま人生の夜明け前にいるのだと教えてくださいました。

貴方の人生は今何時ですか?“ 

(ほぼ日手帳より引用)


これを読んですぐに自分の歳で計算してみた。

 37歳 ÷ 3 = 12.333・・・ 

正午を過ぎた頃だ!

頭の中でアナログ時計が描かれ
その時間を客観的に眺めた瞬間です。
(結構衝撃的だった)

いま、折り返し地点にいる!!!

私は、私の人生を生きているんだろうか。
自分の命を使ってやることってなんだろう。
自分の時間を「量」として自覚したタイミングです。

この時は、まだサラリーマンとして働いていたんですけど
独立して個人で仕事をしていくことを明確に意識したのは
この頃からなんですよね。

自分の生きている時間を意識することって
親しい人との別れがあったり、
自分自身が病気をした時以外に
あまり無いかもしれません。

人間、いつ死ぬかわからない。
ってことは、自分も知っているけれど
日々そのことばかりを思って生きているってことはない。

なんとなく幸せに生きるということが幸せにつながる人もいると思います。
私は、私のヒトという生物としての命を全うする
ってどういうことなんだろうと
哲学的な方向に思考が向かい
その探究は現在進行中です(笑) 

 美味しく食事ができること。
 安心できる居場所があること。
 喜怒哀楽いろいろあるけど、
 人との関わりの中で泣いたり笑ったりすること。
 大好きな人と一緒にいること。
 好きなことに没頭すること。
 自分が行うことによって誰かの役に立てること。 
 etc

自分の生をどう生きるのか。

他人の尺度や基準ではなく、自分の意思で日々を生きる。 

日常にある小さな決断の積み重ねが未来を創っています。
言い尽くされてる言葉だけど
人は一人でこの世に存在しているわけではなく
人と人とのつながりの中で生きています。

自分の一つ一つの小さな決断が 自分の人生だけではなく、
誰かの人生にも影響をあたえている。

そんなことを意識のどこかに持ちながら
今、私が何をするかを考えています。
私の場合は、もともと思考に偏りやすいから
この考えを基に行動をすることを
ものすごーく意識しないといけないけど(汗)


貴方の人生は今何時ですか?
そして、あなたは自分の時間をどう生きていますか? 

<<追伸>>
現在の私の時計は「14時ちょうど」です。
14時、勤務終了時刻を意識しつつ仕事を進める時間帯ですね。



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