2020年10月26日月曜日

温かい手

 今、娘は4歳。

出歩く時は私の手を握り締めて歩く。

私はその手を握り返して歩く。


この手を離れて歩くようになることを、今朝ふと考えた。


やっぱり寂しい気持ちになるんだろうか。

ようやく自分のペースで歩けることを嬉しく思うんだろうか。


きっと、どっちもだ。


私は一人になったとき、どう生きているんだろう。


この子の温かさに依存していないだろうか。

そんなことを思う10月の終わり。


この子が一人で歩けるように

一人立ちするまで共に歩み共に世界を見ていくのが私の役割。

そして、私自身が一人で歩めるように自分を育てていくのも私の役割。


依存や執着のない愛のある存在でありたいと

心から思う。







2020年10月21日水曜日

「自分らしさ」と「自分らしく」

 「自分らしさ」「私らしさ

これ単体でみると全く違和感を感じないんですけど、「私らしく働く」とかみるとドヨーンと淀むというか、言葉の使い方が好きじゃないんだなぁ。

これ読んでいる人は好きですか?この表現。

私にとっては違和感を覚える言葉の繋がりであったりする。


「らしさ」の使い方は好きで

「らしく」の使い方は苦手。

ここは私の分析ポイントでありましょう。

(あ、私のスイッチが。ここはあんまり掘り下げずにいかねば話しが終わらない。)


しっかり文法とかひも解いていくと「あ!そういうことか!」ってなるはずなんだけれども、ここは私の主観で書く。


「自分らしく」「私らしく」となると、自分に対する嘘が混じる気がするんだなぁ。というのが考えてみて改めて感じたこと。

自分は自分であって、存在していることそのものが事実なんだけど「らしく」がつくと”違う自分”となる感覚を抱くということなんだな。

「らしく」がつくことによって「自分ではない自分」が存在してくる感覚。

「見せたい自分」が混ざるという感覚が近いのかな。

「見せたい自分(これは他人の目を意識するってことだ)」と「そのものの自分(全部だ全部。家でボリボリお腹搔いてる姿も含めて。)」が一致しているならいいけど、そうじゃない場合、その姿が乖離するほど辛いものではないのか・・・。

ということが一気に頭にモヤモヤっと駆け巡る言葉遣いなのである。(私にとってだ)

「私らしく働く」とか見たり聞いたりすると「頑張っている素敵な私で働く」って自動変換されるわけですな。キラキラやな。


では「自分らしさ」「私らしさ」はどうかというと、自分を捉える概念をひも解く材料となるもの、といった感覚。

うーん。

「らしさ」というのは、「自分がどういう人であるか?」を認識、理解するための材料(考え方、行動、感じ方を表している身に着けるもの、生活様式、発言する言葉とか、この世界に現れている事柄)がらしさであって、「その人そのもの」を表現しているように感じている。「要素」ってことなんだな。そこには自分以外の他人が得る印象も含まれている。

事実の積み重ねが「らしさ」なんだと思う。

(ほうほう。私はそう思ってるのか。)


「私らしく働く」=「自分を失わずに働く」ってことであれば、気持ちよく受け取れるような気がする。


そういう意味で使ってる人が多いのかな。


これは、あくまでも私の言葉の世界であって、正しいとか正しくないってのは置いておいて欲しい。

この言葉がもつ意味の学問的なことは、またきちんと調べて、私の捉え方が間違っているので

あれば、考え方を適切にすればいい。


余談だが、今回は私が持っていた違和感を言葉にしてみたけれど、これが人とコミュニケーションをとる時にも頻繁に起こっていることなんだろう。

自分が捉えている意味と受けとる人が捉える意味が異なれば、なんだか微妙に話が噛み合わないってことも起こる。

どうでもいいときは「あれ?なんか違うけど、まぁいいや。」で流せばいいけど、大事なことはやっぱり言葉を尽くすってことも大事だろう。


「言葉」は意味を持つ。

当たり前だけれど、自分が言葉をどう遣うか?どう遣っているか?がわかるだけでも自分の世界がわかる。

自分の世界(概念)を理解するのに言葉はとても力を持つ。自分の世界に縛られるのはいかがなものかと思うが、知ればそこから拡げる、広がっていくこともできる。


ここまで書いたら「私らしく」も別にいいやと思った(笑)

そんなことにこだわってたんやな、とわかるとどうでもよくなるってことやね。











カフェで何を飲むか、も”らしさ”の一つだし
どんなお店に入るか、も”らしさ”の一つ。
選択した事実そのものだから。
初めて入ったこの写真のお店。
私の好きな肌触り、絵柄、形のカップで出てきた。
この日いただいたのは「薬膳紅茶」。
どれも私っぽい(笑)

2020年8月2日日曜日

そつがないって疲れるのよ

そつがないよね~

30代の頃、私が言われて嬉しい言葉のトップだった。

そつがない人でいる。

というのは、ものすごく疲れるのだ。
その頃の私は毎日毎日フルスロットルで仕事をし、夜と休日はスイッチが切れて廃人のようになってた。
だから音楽聴くのも、映画を観ることも、本を読むこともできなくなってた。
(大好きな世界なのに!)
家族や友人から電話が来るのも対応するのが苦痛、難しいという暗黒時代だ。


そつがない。
完璧であろうとする自分。

何に対して完璧であるか?
それは他人から見える自分の姿。

「他人からみて正解の行動ができているか」なんだよね。

他人の正
だから
自分ではないわけで。
そりゃ、疲れるさ。

でも、そんなことは気づけないんだよね。
自分を生きていないってことに気づけない。
いつもその視点(他者からみた自分)でいるから、それが自分の考えである。と勘違いして生きてる。
しかもその「他者からみた自分」ってのも自分の妄想だ。

他者の視点なんて、自分の想像でしかない。

だから会話とかコミュニケーションが大事で。相手がどう思うか?なんて当事者である相手に確認しないとわかんないじゃんね。


そんな頃があったなぁ。とふと思い出して。

できない自分を見せたって世界は終わらないし、それをみてサポートしてくれる人だっている。

のんちゃんのそのポンコツなところが愛されポイントやん、って言われると「エヘヘ(照れ
)」と頭を掻きながら嬉しくなったりする。


自分が出来ていることは、自分では見えにくい。
だからね、そのまま自分がやれることを自然に無理なくやっていくのがいいんじゃないかな。

そう思う。




2020年7月18日土曜日

自分の生き方が変わる時 その2(まだ序章)

自分の転機になった話し。の第2回目。
いつになったら終わるかわからんな。
と書き出してから思った。

まぁ、いいや(笑)

今日は、前回書いた「自分が変わる時 その1(序章)」の最後
「ジェロントロジー(創齢学)」という学問で出会うところを話そう。

もう資格も更新していないけど
「サービス介助士」という資格を取得するために講座をうけにいった。
(※この資格は”公益財団法人日本ケアフィット共育機構”が認証している資格制度)
2007年だから34歳の頃だ。

きっかけは、今は亡き祖母が高齢になっていたこと(当時85歳ぐらいか)と
街中でちょっとしたサポートができたらいいな、という軽い気持ちだった。

車いすとか目の不自由な人に街中で出会って、
何か手を貸すことができるかな?
って思っても「どうしたらいいかわからない」からスッと声をかけられないじゃないですか。
わかってればスマートに動けるなぁ、なんて思っていたから。

その講座は2日間コースだったかと記憶している。
座学と実技と。
とにかく、ものすごく勉強になった。
自分の知らないことを体感して、ちょっとした驚きだった。

福祉とか看護の勉強している人からしたら恐ろしくライトな内容だと思うんだけど、ほんとに自分の知らない世界の話しだったんですよ。

いや、誰しも老いていくということは知っているけど、体感がないから「理解できない」じゃないですか。
自分も「わかっているつもり」でまったくもってわかっていない、ということをわかった。といった感覚かな。(ややこしい)

今は腰痛やら目が見えにくいやら現実に起こっているから、当時より「身体がわかっている」けど、当時はまだまだ若かった。

学問的なアプローチと体感的なアプローチで学べたのがよかったんだ。

ジェロントロジーの話しに中々いきつけんが、ここは話しておきたい。
今でも熱く語れるってことは、当時相当興奮したんだろう。

具体的な介助技術を学ぶ際に「高齢者疑似体験」というのがあった。
自分の身体に次の器具を装着して金沢の街中を歩くというもの。
介助する前に介助される側を体感する、立場に立つのが目的だね。

・耳栓 ・白内障ゴーグル ・利き手の手首におもり
・両肘に関節サポーター ・両足首におもり(重さが片足ずつ違う)
・手袋(指を2本テープで固定) ・膝関節サポーター
・杖

とにかく、一つ一つの動作が大変で。
よくお年寄りが切符売り場や自販機で小銭を出せなくてモタモタしている風景みますでしょ?急いでる時に出会っちゃうと、わかっていてもイライラしたり。

上記の手袋と指固定は「触覚の低下と指先が不器用になる状態」を作りだしてるんだけど、お財布から小銭が取り出せないんですよ。
白内障ゴーグルをかけてて「視覚」「視野」も違うから、とにかく自販機でモノが買えないというのを自分が経験するんですよ。
ランプが点いているかいないかも判別しずらい。ランプの色にもよるんだけど。
ランプが見やすい自販機とみにくい自販機があった。
(※今はユニバーサルデザインが普及して、その辺りもだいぶ解消されてきてる気がする)

あぁ、こういう加齢による身体の変化が理解できないと、お年寄りに対してイライラしたり怒ったりするんだなぁと頭が理解した。

祖母に対してもそうである。
「これ開けて」とフィルムで個装された製品を渡されたりすると「自分でしたらいいやん!」とかプリプリしながら対処していたっていうこともあったなぁ。
フィルム個装のものって開けにくくなるんだ。
(すでに私は手のコンディションによるけど開けにくい時がある)

わかるから待てる。対応できる。
わからないと優しくなれないんだ。と。

こういうことが理解できたっていうのは大きな体験だった。
子どもと違って加齢によって「できないことが増えてくる」のは事実。
その反面、経験していることが多いから頭と身体のバランスが悪くなってくるんだろう。
頭で考えていることが、身体に移行しないという感じだろうか。

これだって疑似体験だから、本当にわかったことにはならない。
けれど、想像がつくようになる。
想像力っていうのは、ある程度自分の体験や知識がないと膨らまないんだ。

いや、話しが長いな(笑)

これ、今から13年前のことだ。
今、やっと体験を消化している気がする。
きっと今だからわかることもあって、当時は「面白かった」「勉強になった」で片づけられていた私を言語化できるようになってるってことだ。

そうそう、話しを戻すと、この「疑似体験」と「ジェロントロジー」が組み合わさって、その後の私に影響しているっていうことなんだけどね。

これ、この時にはそんなこと露ほども思っていないし
最近まで気がついていないんだよね。

そんなもんだ。今の行動が先々にどんな結果を生んでいくか?なんてわかんないんだ。
将来を見据えて今行動する。っていったって、その将来の姿を正確に見積もれるなんてことはないんだ。

だからね、「あ、これやってみたいな」とか「興味あるな」ってことで心の中に火種のように残るものについては年齢に関係なく行動してみて欲しい。
(あれもこれもあり過ぎて手が付けられない人は、別の注意が必要だ。)

やってみて「必要なかったな」って思うことがあったとしても、自分の感度・精度を上げていくための経験にはなっている。
自分の選択基準を洗練していく、といった種ができていくのね。
(ここらの話しは、また別の機会だな。「自分を哲学する」に通じるところ。)

また、脱線した。

ジェロントロジーの話しにたどり着かない。

が、今日はここまで。
長いな。


2020年7月13日月曜日

自分に確信をもてるか?

「確信」

強く自分を信じる、ということ。

自分を信じることができるか?

行動の結果についての”確信”は難しい
と、思う。
未来のことはわからない。

未来のことを知ることができたら
この行動がどんな結果になるのか
が、わかる。

事前に結果がわかっていれば「確信をもつ」ことができるわけで
ヒョイヒョイといとも簡単に行動が出来るようになるんだろう。

でも、未来のことは誰にもわからない。
みんな、ドキドキしたり不安な気持ちを抱えたまま
行動をおこしてるんだと思う。

なぜ行動するか?
自分の望む結果を得るために、だ。

そして、行動をおこす人は信じていると思う。
自分を。
(本人に自覚があるかどうかは関係なく)

「こういう結果を出したい!」と思いつつも
ドキドキや不安のために
足が一歩も前にでない人もいる。
モヤモヤした気分のまま先延ばししたり、ね。

そりゃ、どうなるかわからんことは恐い。
当たり前だ。
(恐いから動けないということを自覚できないこともある)

自分を信じることだ。
自分の選択を信じることだ。

どうしたら自分を信じることができるか?

自分自身を深く知ることだ。

知っているつもりでも、知らない自分のこと。
自分を知るという作業は思いのほか難しいし、深い。

私も10数年、自分を知るということについて
色々学び、吸収し、実行してきた。
それでも、まだまだ知らない自分が顔を出す。

新たな自分を知るたびに行動が変化してくる。
そこは、間違いない。

自分を知るということは
自分の望みを知っていくということでもある。

自分の望みを知った上で
「行動する」か「行動しない」かは
自分自身の選択だ。
自分自身の選択には責任を持つことができる。

結果を確信して行動することは難しいかもしれない。
けれど、自分の望む結果を得るために
何かを成し遂げるために行動する。

自分を信じて、行動する。
望む結果をしっかり見据えて行動する。

自分の望む結果がでなかったとしても
自分の選択による行動をしっかり振り返ることができる。
なぜならば、自分がその考えにいたった基を理解しているから。

行動の先にしか
結果はでない。

自分のことを信じることをできるか?
そこが行動の違い、結果の違いを生む。

別に大きな選択じゃなくてもいい。
小さな小さなことでもいい。
(自分で小さなことって思っていても大きな結果を生むこともあるよ)

私の場合はどうか?
を、次は具体的に書くことにしよう。

今日はここまで!