自分の転機になった話し。の第2回目。
いつになったら終わるかわからんな。
と書き出してから思った。
まぁ、いいや(笑)
今日は、前回書いた「
自分が変わる時 その1(序章)」の最後
「ジェロントロジー(創齢学)」という学問で出会うところを話そう。
もう資格も更新していないけど
「サービス介助士」という資格を取得するために講座をうけにいった。
(※この資格は”公益財団法人日本ケアフィット共育機構”が認証している資格制度)
2007年だから34歳の頃だ。
きっかけは、今は亡き祖母が高齢になっていたこと(当時85歳ぐらいか)と
街中でちょっとしたサポートができたらいいな、という軽い気持ちだった。
車いすとか目の不自由な人に街中で出会って、
何か手を貸すことができるかな?
って思っても「どうしたらいいかわからない」からスッと声をかけられないじゃないですか。
わかってればスマートに動けるなぁ、なんて思っていたから。
その講座は2日間コースだったかと記憶している。
座学と実技と。
とにかく、ものすごく勉強になった。
自分の知らないことを体感して、ちょっとした驚きだった。
福祉とか看護の勉強している人からしたら恐ろしくライトな内容だと思うんだけど、ほんとに自分の知らない世界の話しだったんですよ。
いや、誰しも老いていくということは知っているけど、体感がないから「理解できない」じゃないですか。
自分も「わかっているつもり」でまったくもってわかっていない、ということをわかった。といった感覚かな。(ややこしい)
今は腰痛やら目が見えにくいやら現実に起こっているから、当時より「身体がわかっている」けど、当時はまだまだ若かった。
学問的なアプローチと体感的なアプローチで学べたのがよかったんだ。
ジェロントロジーの話しに中々いきつけんが、ここは話しておきたい。
今でも熱く語れるってことは、当時相当興奮したんだろう。
具体的な介助技術を学ぶ際に「高齢者疑似体験」というのがあった。
自分の身体に次の器具を装着して金沢の街中を歩くというもの。
介助する前に介助される側を体感する、立場に立つのが目的だね。
・耳栓 ・白内障ゴーグル ・利き手の手首におもり
・両肘に関節サポーター ・両足首におもり(重さが片足ずつ違う)
・手袋(指を2本テープで固定) ・膝関節サポーター
・杖
とにかく、一つ一つの動作が大変で。
よくお年寄りが切符売り場や自販機で小銭を出せなくてモタモタしている風景みますでしょ?急いでる時に出会っちゃうと、わかっていてもイライラしたり。
上記の手袋と指固定は「触覚の低下と指先が不器用になる状態」を作りだしてるんだけど、お財布から小銭が取り出せないんですよ。
白内障ゴーグルをかけてて「視覚」「視野」も違うから、とにかく自販機でモノが買えないというのを自分が経験するんですよ。
ランプが点いているかいないかも判別しずらい。ランプの色にもよるんだけど。
ランプが見やすい自販機とみにくい自販機があった。
(※今はユニバーサルデザインが普及して、その辺りもだいぶ解消されてきてる気がする)
あぁ、こういう加齢による身体の変化が理解できないと、お年寄りに対してイライラしたり怒ったりするんだなぁと頭が理解した。
祖母に対してもそうである。
「これ開けて」とフィルムで個装された製品を渡されたりすると「自分でしたらいいやん!」とかプリプリしながら対処していたっていうこともあったなぁ。
フィルム個装のものって開けにくくなるんだ。
(すでに私は手のコンディションによるけど開けにくい時がある)
わかるから待てる。対応できる。
わからないと優しくなれないんだ。と。
こういうことが理解できたっていうのは大きな体験だった。
子どもと違って加齢によって「できないことが増えてくる」のは事実。
その反面、経験していることが多いから頭と身体のバランスが悪くなってくるんだろう。
頭で考えていることが、身体に移行しないという感じだろうか。
これだって疑似体験だから、本当にわかったことにはならない。
けれど、想像がつくようになる。
想像力っていうのは、ある程度自分の体験や知識がないと膨らまないんだ。
いや、話しが長いな(笑)
これ、今から13年前のことだ。
今、やっと体験を消化している気がする。
きっと今だからわかることもあって、当時は「面白かった」「勉強になった」で片づけられていた私を言語化できるようになってるってことだ。
そうそう、話しを戻すと、この「疑似体験」と「ジェロントロジー」が組み合わさって、その後の私に影響しているっていうことなんだけどね。
これ、この時にはそんなこと露ほども思っていないし
最近まで気がついていないんだよね。
そんなもんだ。今の行動が先々にどんな結果を生んでいくか?なんてわかんないんだ。
将来を見据えて今行動する。っていったって、その将来の姿を正確に見積もれるなんてことはないんだ。
だからね、「あ、これやってみたいな」とか「興味あるな」ってことで心の中に火種のように残るものについては年齢に関係なく行動してみて欲しい。
(あれもこれもあり過ぎて手が付けられない人は、別の注意が必要だ。)
やってみて「必要なかったな」って思うことがあったとしても、自分の感度・精度を上げていくための経験にはなっている。
自分の選択基準を洗練していく、といった種ができていくのね。
(ここらの話しは、また別の機会だな。「自分を哲学する」に通じるところ。)
また、脱線した。
ジェロントロジーの話しにたどり着かない。
が、今日はここまで。
長いな。