月日を送れば、事々成す事なくして、身は老いぬ。」
(訳文)
目の前のことばかりに気をとられて月日を過ごすうち
なにひとつ完成できず年をとってしまうものなのだ。
吉田兼好が鎌倉時代末期に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』
百八十八段の中の一節です。
一生の中で「ものごとを成し遂げるのに、何にどのように時間を使うのか?」
ということをつれづれとつづっている段です。
このたとえ話しがまた面白いんですよね~。
いつの時代も変わらない。
ざっくり訳すと。。。
ある父親が息子を法師(僧侶)にしようと
息子に言うんです。
「よく勉強して、仏教の因果応報の”真理”を理解して
それを基に説教などをして生計を経てていきなさい」と。
その息子は父から言われたとおり
説教のできる僧侶になるために
まず乗馬の練習をするんですね。
(なんでや!?)
その理由は、法事に招かれて迎えの馬をよこされたときに
うまく乗れなくて落馬でもしたら情けないな~っていうこと。
(かなりウケます)
そして次は歌を習うんです。
(これまたなんでや!?)
何故かというと、仏事が終わったあとにお酒の席に招かれた時に
無芸では無粋(ぶすい)だからという理由。
この法師は、乗馬も歌もわりに上手になるんですけど
結局は説教をしっかりと習う時間をとれずに歳をとってしまった。
というお話しです。
本末転倒というか
「自分がなにを成すべきか」の選択が適切ではなかったってことですよね。
本人が本当に法師になりたかったかどうかは置いておいても
そもそもは「説教で生計をたてることのできる法師になる」が目的であったところを
その他の様々な願望に呑みこまれて
本来の目的をなすことができなかったってことです。
人生の時間は有限ですもんね。
もう、読んでて「イタタタタタタタタ」ってなります。
人は人生にあれもこれもと大きな計画を立てる。
先は長いからとのんびりして
本来、自分がやりたいこと、
成し遂げたいとおもっていることを脇においてしまって
目前のことばかりに気をとられて月日を過ごすうちに
なにひとつ完成させることができずに
歳をとってしまうものなんだよ。
ということを吉田兼好は言っているんですよね。
一事を成し遂げようとすれば、
あらゆることと引き換えにする決意がなければ、
一つの大事(だいじ)を成し遂げることはできない。
ということを例え話を交えて語っています。
この原文を「あらゆることと犠牲にしてやるべきことをやれ!」
という意味で読み取ると悲壮な感じするかもしれませんね。
本質は、そういうことを言いたいんじゃないと思います。
自分の本質にある「望み」に気づく・知って
そのことを実現するために「なにをするのか」選択し、
力を集中させて動きなさい。
ってことを言いたいんじゃないかと私は捉えています。
いつの時代も人の欲望はつきません
本来の自分が望んでいる事。
しっかり自分を観察して探究していくとそんなに多くないんですよ。
根は一つのことだったりします。
自分を使って何をしていくのか?
そして事業をしている人の場合は
自分の事業が何のためにこの世の中にあるのか?
しっかりと目的にあった選択をし
行動をとっていくということが経営者の仕事。
行動を起こした先にあることは
行動を起こさないとわからない。
うまくいかないこともあるかもしれないけれど
なぜ、自分がそのことをするのか?
ということを自分がわかっていれば
そのことに向かって軌道修正することも
適切な行動を起こすこともできる。
なぜ、そのことをするのか。
行動の先にある目的を自分が知っていること
わかっていることで結果が変わってくる。
自分が励む一事のことってなんだろう。
私が、私を使って成し遂げたいことってなんだろう。
常にある問いであったりします。
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【追記】
写真の本は
集英社文庫から出ている”わたしの古典”シリーズ。
永井路子さんの現代語訳
「方丈記・徒然草」です。
この本には原文が載っていません。
古典作品をエッセイとして違和感なく読むのに良い作品です。
このブログで書いてある訳は
私の意訳になっているので正確なものではありません。
助詞の使い方一つで全然違う感じになっちゃうんです。
日本語は深い。