2020年10月26日月曜日

温かい手

 今、娘は4歳。

出歩く時は私の手を握り締めて歩く。

私はその手を握り返して歩く。


この手を離れて歩くようになることを、今朝ふと考えた。


やっぱり寂しい気持ちになるんだろうか。

ようやく自分のペースで歩けることを嬉しく思うんだろうか。


きっと、どっちもだ。


私は一人になったとき、どう生きているんだろう。


この子の温かさに依存していないだろうか。

そんなことを思う10月の終わり。


この子が一人で歩けるように

一人立ちするまで共に歩み共に世界を見ていくのが私の役割。

そして、私自身が一人で歩めるように自分を育てていくのも私の役割。


依存や執着のない愛のある存在でありたいと

心から思う。







2020年10月21日水曜日

「自分らしさ」と「自分らしく」

 「自分らしさ」「私らしさ

これ単体でみると全く違和感を感じないんですけど、「私らしく働く」とかみるとドヨーンと淀むというか、言葉の使い方が好きじゃないんだなぁ。

これ読んでいる人は好きですか?この表現。

私にとっては違和感を覚える言葉の繋がりであったりする。


「らしさ」の使い方は好きで

「らしく」の使い方は苦手。

ここは私の分析ポイントでありましょう。

(あ、私のスイッチが。ここはあんまり掘り下げずにいかねば話しが終わらない。)


しっかり文法とかひも解いていくと「あ!そういうことか!」ってなるはずなんだけれども、ここは私の主観で書く。


「自分らしく」「私らしく」となると、自分に対する嘘が混じる気がするんだなぁ。というのが考えてみて改めて感じたこと。

自分は自分であって、存在していることそのものが事実なんだけど「らしく」がつくと”違う自分”となる感覚を抱くということなんだな。

「らしく」がつくことによって「自分ではない自分」が存在してくる感覚。

「見せたい自分」が混ざるという感覚が近いのかな。

「見せたい自分(これは他人の目を意識するってことだ)」と「そのものの自分(全部だ全部。家でボリボリお腹搔いてる姿も含めて。)」が一致しているならいいけど、そうじゃない場合、その姿が乖離するほど辛いものではないのか・・・。

ということが一気に頭にモヤモヤっと駆け巡る言葉遣いなのである。(私にとってだ)

「私らしく働く」とか見たり聞いたりすると「頑張っている素敵な私で働く」って自動変換されるわけですな。キラキラやな。


では「自分らしさ」「私らしさ」はどうかというと、自分を捉える概念をひも解く材料となるもの、といった感覚。

うーん。

「らしさ」というのは、「自分がどういう人であるか?」を認識、理解するための材料(考え方、行動、感じ方を表している身に着けるもの、生活様式、発言する言葉とか、この世界に現れている事柄)がらしさであって、「その人そのもの」を表現しているように感じている。「要素」ってことなんだな。そこには自分以外の他人が得る印象も含まれている。

事実の積み重ねが「らしさ」なんだと思う。

(ほうほう。私はそう思ってるのか。)


「私らしく働く」=「自分を失わずに働く」ってことであれば、気持ちよく受け取れるような気がする。


そういう意味で使ってる人が多いのかな。


これは、あくまでも私の言葉の世界であって、正しいとか正しくないってのは置いておいて欲しい。

この言葉がもつ意味の学問的なことは、またきちんと調べて、私の捉え方が間違っているので

あれば、考え方を適切にすればいい。


余談だが、今回は私が持っていた違和感を言葉にしてみたけれど、これが人とコミュニケーションをとる時にも頻繁に起こっていることなんだろう。

自分が捉えている意味と受けとる人が捉える意味が異なれば、なんだか微妙に話が噛み合わないってことも起こる。

どうでもいいときは「あれ?なんか違うけど、まぁいいや。」で流せばいいけど、大事なことはやっぱり言葉を尽くすってことも大事だろう。


「言葉」は意味を持つ。

当たり前だけれど、自分が言葉をどう遣うか?どう遣っているか?がわかるだけでも自分の世界がわかる。

自分の世界(概念)を理解するのに言葉はとても力を持つ。自分の世界に縛られるのはいかがなものかと思うが、知ればそこから拡げる、広がっていくこともできる。


ここまで書いたら「私らしく」も別にいいやと思った(笑)

そんなことにこだわってたんやな、とわかるとどうでもよくなるってことやね。











カフェで何を飲むか、も”らしさ”の一つだし
どんなお店に入るか、も”らしさ”の一つ。
選択した事実そのものだから。
初めて入ったこの写真のお店。
私の好きな肌触り、絵柄、形のカップで出てきた。
この日いただいたのは「薬膳紅茶」。
どれも私っぽい(笑)

2020年8月2日日曜日

そつがないって疲れるのよ

そつがないよね~

30代の頃、私が言われて嬉しい言葉のトップだった。

そつがない人でいる。

というのは、ものすごく疲れるのだ。
その頃の私は毎日毎日フルスロットルで仕事をし、夜と休日はスイッチが切れて廃人のようになってた。
だから音楽聴くのも、映画を観ることも、本を読むこともできなくなってた。
(大好きな世界なのに!)
家族や友人から電話が来るのも対応するのが苦痛、難しいという暗黒時代だ。


そつがない。
完璧であろうとする自分。

何に対して完璧であるか?
それは他人から見える自分の姿。

「他人からみて正解の行動ができているか」なんだよね。

他人の正
だから
自分ではないわけで。
そりゃ、疲れるさ。

でも、そんなことは気づけないんだよね。
自分を生きていないってことに気づけない。
いつもその視点(他者からみた自分)でいるから、それが自分の考えである。と勘違いして生きてる。
しかもその「他者からみた自分」ってのも自分の妄想だ。

他者の視点なんて、自分の想像でしかない。

だから会話とかコミュニケーションが大事で。相手がどう思うか?なんて当事者である相手に確認しないとわかんないじゃんね。


そんな頃があったなぁ。とふと思い出して。

できない自分を見せたって世界は終わらないし、それをみてサポートしてくれる人だっている。

のんちゃんのそのポンコツなところが愛されポイントやん、って言われると「エヘヘ(照れ
)」と頭を掻きながら嬉しくなったりする。


自分が出来ていることは、自分では見えにくい。
だからね、そのまま自分がやれることを自然に無理なくやっていくのがいいんじゃないかな。

そう思う。




2020年7月18日土曜日

自分の生き方が変わる時 その2(まだ序章)

自分の転機になった話し。の第2回目。
いつになったら終わるかわからんな。
と書き出してから思った。

まぁ、いいや(笑)

今日は、前回書いた「自分が変わる時 その1(序章)」の最後
「ジェロントロジー(創齢学)」という学問で出会うところを話そう。

もう資格も更新していないけど
「サービス介助士」という資格を取得するために講座をうけにいった。
(※この資格は”公益財団法人日本ケアフィット共育機構”が認証している資格制度)
2007年だから34歳の頃だ。

きっかけは、今は亡き祖母が高齢になっていたこと(当時85歳ぐらいか)と
街中でちょっとしたサポートができたらいいな、という軽い気持ちだった。

車いすとか目の不自由な人に街中で出会って、
何か手を貸すことができるかな?
って思っても「どうしたらいいかわからない」からスッと声をかけられないじゃないですか。
わかってればスマートに動けるなぁ、なんて思っていたから。

その講座は2日間コースだったかと記憶している。
座学と実技と。
とにかく、ものすごく勉強になった。
自分の知らないことを体感して、ちょっとした驚きだった。

福祉とか看護の勉強している人からしたら恐ろしくライトな内容だと思うんだけど、ほんとに自分の知らない世界の話しだったんですよ。

いや、誰しも老いていくということは知っているけど、体感がないから「理解できない」じゃないですか。
自分も「わかっているつもり」でまったくもってわかっていない、ということをわかった。といった感覚かな。(ややこしい)

今は腰痛やら目が見えにくいやら現実に起こっているから、当時より「身体がわかっている」けど、当時はまだまだ若かった。

学問的なアプローチと体感的なアプローチで学べたのがよかったんだ。

ジェロントロジーの話しに中々いきつけんが、ここは話しておきたい。
今でも熱く語れるってことは、当時相当興奮したんだろう。

具体的な介助技術を学ぶ際に「高齢者疑似体験」というのがあった。
自分の身体に次の器具を装着して金沢の街中を歩くというもの。
介助する前に介助される側を体感する、立場に立つのが目的だね。

・耳栓 ・白内障ゴーグル ・利き手の手首におもり
・両肘に関節サポーター ・両足首におもり(重さが片足ずつ違う)
・手袋(指を2本テープで固定) ・膝関節サポーター
・杖

とにかく、一つ一つの動作が大変で。
よくお年寄りが切符売り場や自販機で小銭を出せなくてモタモタしている風景みますでしょ?急いでる時に出会っちゃうと、わかっていてもイライラしたり。

上記の手袋と指固定は「触覚の低下と指先が不器用になる状態」を作りだしてるんだけど、お財布から小銭が取り出せないんですよ。
白内障ゴーグルをかけてて「視覚」「視野」も違うから、とにかく自販機でモノが買えないというのを自分が経験するんですよ。
ランプが点いているかいないかも判別しずらい。ランプの色にもよるんだけど。
ランプが見やすい自販機とみにくい自販機があった。
(※今はユニバーサルデザインが普及して、その辺りもだいぶ解消されてきてる気がする)

あぁ、こういう加齢による身体の変化が理解できないと、お年寄りに対してイライラしたり怒ったりするんだなぁと頭が理解した。

祖母に対してもそうである。
「これ開けて」とフィルムで個装された製品を渡されたりすると「自分でしたらいいやん!」とかプリプリしながら対処していたっていうこともあったなぁ。
フィルム個装のものって開けにくくなるんだ。
(すでに私は手のコンディションによるけど開けにくい時がある)

わかるから待てる。対応できる。
わからないと優しくなれないんだ。と。

こういうことが理解できたっていうのは大きな体験だった。
子どもと違って加齢によって「できないことが増えてくる」のは事実。
その反面、経験していることが多いから頭と身体のバランスが悪くなってくるんだろう。
頭で考えていることが、身体に移行しないという感じだろうか。

これだって疑似体験だから、本当にわかったことにはならない。
けれど、想像がつくようになる。
想像力っていうのは、ある程度自分の体験や知識がないと膨らまないんだ。

いや、話しが長いな(笑)

これ、今から13年前のことだ。
今、やっと体験を消化している気がする。
きっと今だからわかることもあって、当時は「面白かった」「勉強になった」で片づけられていた私を言語化できるようになってるってことだ。

そうそう、話しを戻すと、この「疑似体験」と「ジェロントロジー」が組み合わさって、その後の私に影響しているっていうことなんだけどね。

これ、この時にはそんなこと露ほども思っていないし
最近まで気がついていないんだよね。

そんなもんだ。今の行動が先々にどんな結果を生んでいくか?なんてわかんないんだ。
将来を見据えて今行動する。っていったって、その将来の姿を正確に見積もれるなんてことはないんだ。

だからね、「あ、これやってみたいな」とか「興味あるな」ってことで心の中に火種のように残るものについては年齢に関係なく行動してみて欲しい。
(あれもこれもあり過ぎて手が付けられない人は、別の注意が必要だ。)

やってみて「必要なかったな」って思うことがあったとしても、自分の感度・精度を上げていくための経験にはなっている。
自分の選択基準を洗練していく、といった種ができていくのね。
(ここらの話しは、また別の機会だな。「自分を哲学する」に通じるところ。)

また、脱線した。

ジェロントロジーの話しにたどり着かない。

が、今日はここまで。
長いな。


2020年7月13日月曜日

自分に確信をもてるか?

「確信」

強く自分を信じる、ということ。

自分を信じることができるか?

行動の結果についての”確信”は難しい
と、思う。
未来のことはわからない。

未来のことを知ることができたら
この行動がどんな結果になるのか
が、わかる。

事前に結果がわかっていれば「確信をもつ」ことができるわけで
ヒョイヒョイといとも簡単に行動が出来るようになるんだろう。

でも、未来のことは誰にもわからない。
みんな、ドキドキしたり不安な気持ちを抱えたまま
行動をおこしてるんだと思う。

なぜ行動するか?
自分の望む結果を得るために、だ。

そして、行動をおこす人は信じていると思う。
自分を。
(本人に自覚があるかどうかは関係なく)

「こういう結果を出したい!」と思いつつも
ドキドキや不安のために
足が一歩も前にでない人もいる。
モヤモヤした気分のまま先延ばししたり、ね。

そりゃ、どうなるかわからんことは恐い。
当たり前だ。
(恐いから動けないということを自覚できないこともある)

自分を信じることだ。
自分の選択を信じることだ。

どうしたら自分を信じることができるか?

自分自身を深く知ることだ。

知っているつもりでも、知らない自分のこと。
自分を知るという作業は思いのほか難しいし、深い。

私も10数年、自分を知るということについて
色々学び、吸収し、実行してきた。
それでも、まだまだ知らない自分が顔を出す。

新たな自分を知るたびに行動が変化してくる。
そこは、間違いない。

自分を知るということは
自分の望みを知っていくということでもある。

自分の望みを知った上で
「行動する」か「行動しない」かは
自分自身の選択だ。
自分自身の選択には責任を持つことができる。

結果を確信して行動することは難しいかもしれない。
けれど、自分の望む結果を得るために
何かを成し遂げるために行動する。

自分を信じて、行動する。
望む結果をしっかり見据えて行動する。

自分の望む結果がでなかったとしても
自分の選択による行動をしっかり振り返ることができる。
なぜならば、自分がその考えにいたった基を理解しているから。

行動の先にしか
結果はでない。

自分のことを信じることをできるか?
そこが行動の違い、結果の違いを生む。

別に大きな選択じゃなくてもいい。
小さな小さなことでもいい。
(自分で小さなことって思っていても大きな結果を生むこともあるよ)

私の場合はどうか?
を、次は具体的に書くことにしよう。

今日はここまで!



2020年7月9日木曜日

選択と満足

自分の選択できているか?

案外と他者の視点でものを決めている人、多いよ。

自分のものだと思っている「好き」や「嫌い」も親や世間や時代が「良い」「悪い」「好き」「嫌い」と設定したものに影響されている。

満足して生活することに必要なことってなんだろう。
私にとってはこの2点の要素が大きい。

・選択するために自分を知っておくこと
・選択できる水準に自分をおくこと


生活のこと
学校を選ぶこと
パートナーを選ぶこと
働き方を選ぶこと

朝早く起きるかギリギリまで寝るか
掃除をするかしないか
ご飯は何を食べるか

etc.etc.

大きなことから小さなことまである。
選択、決断の繰り返しが日常だ。

自分が満足するための基準を知っておくと
無意識から意識的に選択ができるようになる。

それから経済力と知識・教養など学力。
自分がやりたい!と思ったときに行動がとれやすい水準に自分をおいておく。
ということだ。
※学力は学校の偏差値とかネームバリューじゃなくて、俯瞰してものをみることや論理を組み立てる、物事を読み解くとかいうこと。
やりたいことを実現するために必要な力。

毎日が選ぶことの繰り返し。
自分が「なにを基準に選んでいるのか」
を知るだけでも
これから先の選択が変わってくる。


選ぶも選ばないも自由。
選んだ時に起こること
選ばなかった時に起こること。

自分が結果を受けとめる力がつくということじゃないかな。
生きてることに満足できるかどうか。
選ぶ自分が握っている。














6月21日  日食新月の日の写真。
淡路島西浦の海で。

2020年7月4日土曜日

選択できる、ということが大事

大阪市、給付金来ないね。
5月の収入が落ちたから
6月には手元に欲しかった。
(割と切実に)

あてにしていたのだが。
ないものはしょうがない。
必要最小限の生活をする、
という選択になるね。

お金がない
というのは、切実ではあるけれど
必要最低限生活するためのお金はなんとかある。
そんな状況。

必要最低限、ということは
選べない、選択の幅がないということだ。

ちょっと話しは飛ぶけれど
4年前、妊娠が発覚した時が
一番お金のない時だった。
自分の事業より大切なものと出会ってしまった
と思っていた結果だった。

その頃、事業がおざなりになって
貯蓄を潰していくようなことになっていた。
(クライアントとは真剣に向き合ってたよ!
 ただ広報とか事業につながる導線をひく活動をしなくなってた。
 先細りしてく状況ね。)

大切なもの。
それは残念ながら自分がそう思っていただけだった。
妊娠と同時に別れて
一人で産むことになった。

その辺りの諸々は省略するけれど
(いつか違う形で書くと思う)
なにを書きたいかというと
とにかくお金がなかった。
ということを書きたいのだ。
そんな生活を経験したということね。
恐かったよ、正直。

出産までの間、企業へのお勤めに出て
生活できるレベルにはなっていたものの貯蓄は一切なく、
出産後働けない期間の生活をどうしたらよいか?
それはそれは、それはそれは切実な状況だった。

生まれてくる子どものための
産着からロンパース、靴下、おくるみ
ありとあらゆるものは出産前に
事業仲間の友人が調達してくれた。
新しく自分で買ったものは新生児用のおむつと哺乳瓶のみといった感じ。

「出産一時金」で出産費用(入院費・出産費等)が賄えるように
入院先も最初にかかった産婦人科医院で公立病院を紹介してもらった。
が、陣痛前に破水したため出産日より前の入院となった。
入院期間が延びた分の金額が会計時にわかって青くなるという。
出産祝いを持って駆けつけてくれたお世話になっている心理学の先生や
友人たちの出産祝いの封を病院の会計窓口で切るという
誠に情けない状況にため息しか出なかった。

一人暮らしをしていた部屋で
小さな小さな可愛い女の子と過ごし始めた。
両親もおらず、弟が継いでいる実家も遠く頼るのは、友人たち。
起業家の仲間たちが出産祝いとして集めてくれたお金で
産褥期の1ヶ月の間の食事を手配してくれていた。
身体に美味しいごはんがクール宅急便で届くという
ほんとにほんとにありがたいサポートをしてもらった。
(その時、美味しい食事を作ってくれていたのは
中山日さえさん(台所アルのご店主)
不安の中でも美味しいご飯を食べてた。)
食べるものがある、というのはものすごい安心感なのだ。



今も感謝しかない。
ほんとにありがたかった。
この仲間たちのサポートがなかったらと考えると
ほんとにゾッとする。

とにかく選択の幅、なんてものはなかった。
選択はしているけど
「買えるか?買えないか?これを買ったら明日から生活できるか?」の選択だ。

出産手当金と友人・知人からの出産祝いで
なんとか8か月間を乗り切って仕事に復帰した。
9月に出産して4月に職場復帰。

個人の事業をする気力も時間もなかった。
出勤してきちんと仕事をすればお給料が出る
というお勤め仕事が精神的にも肉体的にも楽だった。
時短勤務だから貰える金額も多くはない。
それでもなんとか生活はしている。

それから間もなく4年が経つ。
個人の事業も昨年末から再開した。
少しずつだけれど自分の望みに向かって
行動がとれるようになってきている。
これからどうするのか?だ。

お金がない、というのは切実だ。
家賃が払えない、明日のお米がない
電気が止まる、ガスが止まる
ありとあらゆる支払いができない。
お金がないのは恐怖でしかない。

必要最低限の生活ができるお金があれば
なんとかなる。生きていける。
が、好きなものは選べない。のだ。

ものを選べるというのは
めちゃくちゃ幸せなことである。

とはいえ、「あれがほしい!これがほしい!」と
欲があるか?と聞かれれば
「そんなことないなぁ」と思うのだ。
なんか矛盾しているけど。

まぁ、我慢してないか?といえばうそになる。
いい靴が欲しい。
とか、収納棚が欲しい。とか
そうのは、ある。
でも生活に満足していないか?と聞かれれば
「満足はしている」と答えるなぁ。

お金があれば、あれこれ選択肢が増える。
自分の選びたいものが選べる、というのは幸せだけど
贅沢したい、というのとはまた違うんだな。
と貧乏生活をしながらも思う。
たぶん、自分に必要なものを自分が認識しているからだ。

お金がないなりに
自分の選んだ生活をしている
そういうことなんだと思う。

とにかく「選択できる状況に自分をおく」
をいうのが大事なんだな。

選択の幅をもつために何をするか?
勉強することもそうだし
仕事をすることもそうだし
選べる状況を作ることが大事だと思う。

上をみてもきりがなし
下をみてもきりがなし。

自分が求めるものがなんなのか?
自分の望みはなんなのか?
知っている上で、それを選択することができるように
行動していく。

そういうことなんだと思う。


2020年5月26日火曜日

煮凝りみたいな感じでいこうと思う

コロナウイルス。
ものすごいインパクトを伴いながら日常に溶け込もうとしている。

症状がない場合は自分自身は問題ないが
自分からどこか別の人に飛んで行ったときに
飛んで行った先の人がどうなるか?が読めないだけに
とても怖いと思う。

どういう風に共存していくことになるのか。
自分にできること
手洗い、うがい、消毒、マスク
をしっかりやりつつ日常を送る。
個人でできることってこれくらいだもんね。

今、ちょうどお昼に書いてる。
今朝はZOOMで雑談(ZATSUDAN)というコンテンツに参加。
主催者の人(岡田鉄平さん。珍しく私がずっとリサーチしてる人。岡田さんのメルマガなどの書き物は前段に、私にとっては理解しがたい言語が枕詞のようにくる。思わずスルーしたくなるんだけど、伝えている内容にとても共感している。)ともう一人の参加者、そして私。
30分程とりとめもなく話す。

そんな流れから今日感じてる自分のことを書いておこうかな、と。

今、湧いている言葉は
「煮凝り(にこごり)」

魚や肉を炊いたあとの煮汁を固めて作るアレだ。
鶏肉とかカレイとか甘辛く炊いたあと固まってる煮汁ね。
(綺麗にお料理として作るものもあり)

こんな感じでいいんじゃないって
なんかふと思ったんだよね。

煮凝り、私も食べるときと食べない時がある。
好きな人は好きだよね。
私は煮汁で勝手にできるものは
あつあつのご飯に乗せないと食べられないかなぁ。
穴子とか綺麗に寄せて作ったものは
そのまま食べるけど。

個人の好きずきってことだ。
もう色んなところで色んな人が言ってることなんだけどさ、
「そんなの好きずきだよ」って言ってても
腑にはなかなか落ちていないと思うんだよね。

口で言ってても「なんでも食べてみなよ!」って
人に言ってたりするしね。
(美味しいものは人と共有したいという場合もあるけど)

なんの話しかわからんくなっとるな。

人が書いたものって、
その人から出てくる「濃縮したもの」だ。
煮詰めて出てきたエキスが固まったもの。
いや、サラッと出してる人は当てはまらんかもしれんな。
私の場合はゴリゴリに煮出すイメージになる。
(煮詰め過ぎて表に出せず、ごみ箱行きになるものが多すぎる)
ちょっと気持ち悪い。

美味しいと思うかどうかは食べた人次第だ。

今日は改めてそんなことを思った日。

煮凝りみたいにコトコト煮込んだ本体は
主菜として世に美味しく提供できたらよい。
んで、詰まった煮汁は副産物だけども
本体から出てきたエキスが濃縮されているものだ。
それも美味しくお料理としていただけたらいいね。
そんな感じ。
美味しく出せるぐらいで表に出さんとね。

煮凝り。
食べるか食べないか
美味しいか美味しくないか
は、出されたものの前に座る人のものだ。

これ、なんだろな。
なんの話しかわからんかもしれんけど
ま、私の頭の中はいつもこんな感じで
物事が流れとる。

それもまたよし。


※これは石川の郷土料理で「えびす」。
お出汁を寒天で固めたもの。
 お祝い事で食べる。
 煮凝りなんて写真撮ることないから代わりに。
 これはお節料理で作った時の。








2020年2月20日木曜日

人生100年といわれるとね

人生100年。

聞くたびに「あぁ、恐ろしい・・・」と反射的に思ってしまう。

・歯の調子が悪い(60歳までもつのか?私の歯)
・腰痛がひどい(しばらく同じ姿勢でいると動きだすのに時間がかかる)
・老眼が進んでいる(焦点が合いずらい。夜、見えにくい)

50歳前でこんな状態だからです(爆)

健康でいられる時間がどのくらいあるのか人それぞれだけど
生きている時間は心身ともに健全に過ごしたい。

身体のことに不安要素が大きいんだよなぁ。
とにかく40代のうちにメンテナンスをしっかりしていかないと
身体から病んでいきそうなので
ここはしっかり取り組んでいきたいところ。

とりあえず、ラジオ体操を始めました。

これがなんだか気持ちいいんですよ。
しっかり全身運動。
んで、久しぶりにやると
「飛べない自分」にビックリしたりするんです。

そう、ジャンプがつらい(笑)
普段、飛ぶという動作しないもんね。

普段しない動作はできなくなるってことだ。
意識的に動かすって、歳をとればとるほど大事なんやな。

身体も頭も心も、
しっかり稼働させて
しっかり機能するように
確認が必要ってことなんやなぁ。

動かしてみないとわからん。

人生100年。
と聞いて「あー!それは楽しいなぁ!」といった感じに
なるのもあんまりピンとこないけど
「恐ろしさ」は無くてもいいな。
無い方がいいな。



2020年1月22日水曜日

【ご案内】2020年1月25日(土)☆昭和サロンイベント☆

間もなくです!

1月25日(土)11:00~17:00
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コーヒーもランチもとても美味しいお店です。
当日もコーヒー・ランチ・軽食を提供されていますよ!

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いろいろやっているので
是非遊びにきてください♪

そういえば、この日は旧暦のお正月なんですよね!

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毎月1回テーマを変えての開催です(全10回予定)。お好きなテーマの時に受講してください。単発で受講も OKですし、毎回参加でもOK。ご自分のフィーリングで受講を決めてください。(連続3回受講の場合割引制度あります。)

<開催日程>
第4回:2020年4月18日(土)10:30-12:30
   (テーマ:自分がありたい姿)

第5回:2020年5月16日(土)10:30-12:30
   (テーマ:自分が大切にしていること)

第6回:2020年6月20日(土)10:30-12:30
   (テーマ:検討中★)

※開催まで期間があるのでテーマを見直す可能性もあります。
 ご了承ください。

<参加料金>
価格:3,000円(税込)/1ワークショップ

詳細・お申込みはこちらでご確認ください☆ → 募集案内ページ